第一號
活字拾い
階下では毎晩、誰かが潰れた雑誌を刷り續けてゐる
1,721字#怪奇#印刷

一
引っ越して三日目の夜に、床が鳴った。
正確には床ではない。床の下だ。カチ、カチ、カチ、と小さな金属が擦れ合うような音が、ちょうど枕の真下あたりから上がってくる。等間隔ではなかった。速くなり、迷い、また速くなる。何かを探している者の手つきだ、と寝ぼけた頭でわたしは思った。
わたしはその頃、通販サイトの商品説明を一件百二十円で書いていた。二十四時間で四十件書ける日もあれば、一件も書けない日もある。書けない日にかぎって、床の下はよく働いた。
四日目の朝、管理人室の窓を叩いた。管理人は七十をいくつか越えた男で、老眼鏡を外しながら出てきた。
「下の部屋、何時まで人が入ってるんですか」
「下、と言いますと」
「わたしの部屋の下です。一〇一号室」
管理人は少しのあいだ、わたしの顔を見ていた。それから、たいへん申し訳なさそうに笑った。
「お客さん、一〇一号室が、いちばん下ですよ」
二
その夜、わたしは非常階段の裏に回った。
建物の基礎に沿って、腰までの高さの鉄扉がある。閉じているように見えて、蝶番の側が拳ひとつぶん浮いていた。押すと、抵抗もなく開いた。
階段は思っていたより長かった。降りるにつれて、あの音が輪郭を持ちはじめる。カチ、カチ。金属ではなく、木と鉛の音だった。
下りきったところに、部屋があった。
天井は低い。裸電球がひとつ、垂れている。壁という壁が、浅い引き出しで埋まっていた。引き出しは一段が三十いくつに仕切られていて、その仕切りのひとつひとつに、鉛の活字が伏せて眠っている。
その前に、老人が立っていた。
背は低く、肩が片方だけ落ちている。長く同じ姿勢で腕を伸ばしてきた者の背中だった。老人は引き出しに手を突っ込み、目も向けずに活字をつまみ上げ、左手の小さな舟形の道具に並べていく。カチ。カチ。
「すみません」
老人は振り返らなかった。
「音が、上まで」
「うるさかったですか」
思いのほか若い声だった。
「いえ。……何を刷ってるんですか」
老人は手を止めずに、顎で部屋の隅を示した。
紐で十字に縛られた雑誌の束が、腰の高さまで積んである。表紙は仙花紙で、赤と黒の二色。赤は刷りがずれていて、題字の輪郭から一分ばかりはみ出していた。
わたしは一冊抜いた。表紙に、朱で大きく——
「カストリ」
「三合飲めば潰れる」老人が言った。「三号出せば潰れる。だからカストリです。うちは、まだ潰れとらんですがね」
※
「何号まで出たんですか」
「さあ」老人は少し笑った。「数えたことがない。数えると、こわくなるでしょう」
三
頁をめくった。
紙は埃を吸って、ざらざらと指に絡んだ。インクが薄い。組みも荒い。行の頭が揃っていない箇所がいくつもあって、罫は途中で切れていた。粗製濫造という言葉が、これほど正しく当てはまる印刷物を、わたしは見たことがなかった。
三十二頁の下段に、わたしの文章があった。
見間違えではない。「肌に触れた瞬間、季節がひとつ戻る」——去年の秋、保湿クリームの商品説明のために書いて、クライアントに長すぎると言われて削った一行だ。世に出ていない。わたしの下書きフォルダの中にしかない。
それが、ずれた赤の下に、堂々と組まれていた。
「これは」
「ああ、それは、よく出来た方です」老人はまだこちらを見ていない。「あんたのは、たいてい途中で切れとるから」
「わたしの、って」
「あんたが書く前に、こっちが拾っちまうんですよ」
老人は活字をひとつ、指の腹で撫でた。
「思いついて、まだ言葉になっとらんやつを、ね。放っといても、あんたら、半分は書かんでしょう。書かんものを、こっちが拾って、刷る。もったいないから」
「勝手に」
「ええ、勝手に」
老人は初めて振り返った。顔は、電球の真下にいるのに、暗かった。
「文句を言われたのは、あんたが初めてです」
※
翌朝、非常階段の裏に回ったが、鉄扉はどこにもなかった。基礎のコンクリートは継ぎ目もなく、蝶番のあった位置には、雨だれの跡が一本走っているだけだった。
部屋に戻ると、玄関に雑誌が一冊、置いてあった。
奥付を見た。
発行日は、明日になっていた。

わたしはそれを開かなかった。開かずに、机の隅に置いてある。
ときどき、床の下でカチ、と鳴る。
書かなかった行を、また一本拾われたのだと思う。
— 完 —