カストリ文庫
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第十二號

声色帳

上手い聲色ほど、持ち主が居ない

2,719字#滑稽#寄席

焼け残った寄席の高座で、扇子一本を手に大見得を切る声色芸人。客席は満員で笑いに揺れている
挿繪 焼け残った寄席の高座で、扇子一本を手に大見得を切る声色芸人。客席は満員で笑いに揺れている

昭和二十二年の春から、わたしは上野の外れの寄席で下足番をしていた。空襲で表通りが丸焼けになったのに、この小屋だけは焼け残った。席亭は自慢にしていたが、楽屋では、閻魔も取り立てを忘れる建物だ、というのが通り相場であった。

看板は、声帯模写せいたいもしゃの音丸師匠である。

声色こわいろというやつは、聞いたことのない者に説明がむずかしい。要するに、他人の声で飯を食う商売だ。音丸師匠のは絶品だった。映画俳優をやる。浪曲師をやる。ラジオのアナウンサーをやって、天気予報のあとに闇米の相場を読み上げる。ここでまず客席が沸く。仕舞いには近所の交番の巡査をやるのだが、これが当人より当人らしいというので、いっぺん本物の巡査が客席で聞いていて、翌日から声の出し方が変わった、という話まである。

「芸というものはな」と師匠は楽屋で言った。「本物より少うし嘘のほうが、本物に聞こえるんだ。本物の声てえのは、案外、本物らしくない」

高座を下りた師匠は、口数の少ない人だった。というより、妙な癖があった。素で喋るときも、誰かの声に似ているのである。今日は先代の席亭の声、明日は出入りの酒屋の声。当人の地声というものを、わたしはついぞ聞いた覚えがなかった。楽屋でそれを言うと、前座の兄さんが笑った。

「気がついたか。あの人の地声を聞いたら一人前だと、この小屋じゃ言うんだ。もっとも、聞いた者はまだいない」

夏の初めの晩である。跳ねたあとの木戸口に、かすりのもんぺの女の人が立っていた。客ではない。番組が終わるのを、ずっと外で待っていたのだという。

「音丸さんに、お目にかかりたいのですが」

楽屋へ通すと、師匠は火鉢の前に座り直して、女の人の顔をしばらく見ていた。それから、帳面を出した。

手垢で黒光りのする、薄い雑記帳である。表紙に何も書いていない。師匠が繰ると、頁には名前が並んでいた。一行にひとつずつ。半分がた、朱の線で消してある。

「ご新姓は」

「岩井です。岩井、シゲの家内で——いえ」女の人は言い直した。「家内で、ございました」

師匠は帳面の中ほどで指を止めた。それから、わたしに、表の戸を閉めてこい、と言った。閉めて戻ると、師匠は目をつぶって、火鉢の縁に両手を置いていた。

「岩井は、南方で一緒でした」と師匠は言った。「あれは、こう言っとりました」

次に師匠の口から出た声を、わたしはうまく書けない。若い、少し鼻にかかった、笑い癖のある男の声だった。その声が、女房の名を呼んで、それから、留守中の畑の心配と、子どもの歯の生え変わりの話をした。芸ではなかった。少なくとも、高座のあのではなかった。伝言というものは、あんなにゆっくり喋るものだ。

女の人は膝の上で手を重ねたまま、最後まで、返事をするように聞いていた。はい。はい。ええ、生えました、丈夫なのが。

声が済むと、師匠は目を開けて、もういつもの——つまり誰かに似た——声に戻って、粗茶も出せませんで、と言った。女の人は財布を出しかけて、師匠に止められ、代わりに深く辞儀をして帰っていった。

師匠は帳面を開いて、岩井、の一行に、朱で線を引いた。

その晩、わたしは訊いた。あれは何です、と。

「預かりものだ」師匠は帳面を懐に仕舞った。「わしは向こうで、慰問じゃない、二等兵で行っとったんだが、芸人だてえことが知れてな。皆が言うんだ。おい音丸、俺の声を覚えとけ。俺が駄目でも、お前は芸人だから弾にあたらん、帰って、俺の声で一言、家の者に言ってやってくれ——」

「中らんことは、ないでしょう」

「ないさ。だがそう言わんと、皆、覚えさせる張り合いがない」師匠は火鉢の灰を均した。「ひと晩にひとりずつ、壕の中で吹き込みやがった。言伝ことづてつきでな。こっちは商売柄、いっぺん耳に入った声は忘れられん。因果なもんだ」

帳面の名前は、五十いくつあった。復員して二年、師匠は寄席の給金で方々を訪ね歩いては、一人ずつ、声を返して回っているのだった。朱の線は、返し終えた印である。

「高座の声色は、その稽古ですか」

「馬鹿を言え」師匠は初めて笑った。「高座は米櫃だ。巡査の声色で笑わせて、その銭で汽車に乗って、死んだ奴の声色を届けに行く。……妙な商売になったもんだ。生きとる奴の声は笑われて、死んだ奴の声は拝まれる」

秋までに、朱の線はだいぶ増えた。増えるにつれて、妙なことが起きた。

高座の声色が、冴えていくのである。巡査も、アナウンサーも、前にも増して本物らしくなった。客は沸きに沸いた。ところが楽屋の師匠は、日に日に口数が減った。誰かに似た声すら、出さなくなった。用があると、扇子で床を叩く。

前座の兄さんは、喉を惜しんでるのさ、と言った。わたしは、そうは思わなかった。預かった声を返すたびに、師匠は自分の中の抽斗ひきだしをひとつずつ空にしていく。空いた抽斗に、入れるものが何もないのだ。

暮れの近い晩、帳面の名前は、残りひとつになった。

わたしは楽屋でそれを見せてもらった。最後の一行は、他の名前より小さな字で、隅のほうに書いてあった。線は引かれていない。読もうとすると、師匠は帳面を閉じた。

「そいつは、届け先が分からんのですか」

「分かっとる」師匠は火鉢に手をかざした。「分かっとるが、そいつの声だけは、どうも、うまく出せんでな」

「師匠が、出せない声があるんですか」

「ある」

それきり黙ったので、わたしも黙った。表で木枯らしが鳴って、小屋のどこかで戸が鳴った。ずいぶん経ってから、師匠は言った。誰の声にも似ていない、低い、掠れた声だった。

「地声というものはな、当人がいちばん、聞いたことがないんだ」

わたしは下足の札を握ったまま、動けなかった。帳面の最後の一行に書いてあった小さな字を、そのとき、読めた気がしたからである。

火鉢の前で薄い帳面を開く声色芸人。名前の並んだ頁の大半に朱の線が引かれ、最後の一行だけが残っている
挿繪 火鉢の前で薄い帳面を開く声色芸人。名前の並んだ頁の大半に朱の線が引かれ、最後の一行だけが残っている

年が明けて、師匠は高座で倒れた。巡査の声色の途中で、客は最後まで、芸のうちだと思って笑っていた。

葬式は、寄席でやった。芸人の弔いだから、湿っぽくはない。皆が代わる代わる、師匠の十八番を真似ては、似てない似てないと言って笑った。誰がやっても、似ていなかった。考えてみれば当たり前で、皆が真似たのは師匠の声色で、師匠の声ではないのである。

帳面は、わたしが貰った。形見分けというほどのものは、他に何もなかった。

最後の一行には、やはり線が引かれていなかった。小さな字で、こう書いてあった。

——音丸。言伝、なし。

届け先は、分かっている。師匠の在所は、皆が知っていた。婆さまがひとり、まだ達者でいなさるということも。

わたしはいつか、あの掠れた低い声を——たった一度だけ聞いた、誰にも似ていないあの声を、覚えているうちに、届けに行かねばならんと思っている。

似ていなかったら、堪忍してもらうより、ほかにない。

— 完 —

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