カストリ文庫
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第三號

遺書泥棒

誤字のある遺書では、死なせない

3,804字#人情#犯罪

裸電球の下、卓袱台を挟んで遺書に赤鉛筆を入れる泥棒と、頬杖をついてそれを見る若い女
挿繪 裸電球の下、卓袱台を挟んで遺書に赤鉛筆を入れる泥棒と、頬杖をついてそれを見る若い女

商売柄、ひとの窓ばかり見て生きてきた。

空き巣という稼業は、入ってからの手際より、入る前の目利きが九割である。牛乳箱の溜まり具合、雨戸の桟に積もった埃、物干しの乾き加減。窓の閉まりの甘い部屋というのは、通りから見上げただけで分かる。ぜんぶ師匠の仕込みである。

道具は七つと決めている。ねじ回し、当て木、懐中電灯、軍手、蝋燭ろうそく、糸、それから赤鉛筆が一本。しまいのやつの使い道は、おいおい分かる。

盗るのは現金だけ、それも有り金の半分と決めている。根こそぎ盗られた家は届けを出すが、半分だけ盗られた家は、まず気のせいにするからである。この稼業、欲をかいた者から順に消えていく。これも師匠の教えだ。

その部屋に目をつけたのは、梅雨の明けきらん時分だった。都電通りから一本入った木造アパートの二階の角。牛乳受けにびんが三本溜まって、夜になっても灯りが点かん。三晩通って見て、留守と踏んだ。四晩目、裏の物置の屋根から手すりへ移り、窓の桟に蝋を引いて、音もなく開けた。

畳に降りて、懐中電灯を低く一回りさせる。箪笥、裁縫箱、それから卓袱台ちゃぶだいの前にきちんと座っている女と、目が合った。

灯りのない部屋で、女は座っていたのである。齢は二十四、五。悲鳴も上げず、逃げもせず、暗がりの中でわたしの顔をしばらく見てから、女は言った。

「泥棒?」

「……いかにも」

「ちょうどよかった」女は卓袱台の上の紙を差し出した。「これ、読んでくれない。三日書いてるんだけど、これでいいのか、もう自分じゃ分からないの」

電灯の紐を引いてから、受け取った。書き出しにこうあった。

拝啓 向暑の候、皆様におかれましてはますますご清栄のことと存じます——

「遺書に時候の挨拶を書くやつがあるか」

と、わたしは言ってしまった。それが運の尽きである。

女は口を尖らせた。

「だって、手紙の書き方の本に、そう書いてあったもの」

「遺書は手紙じゃない。最後の文章だ。一生の締めくくりに、暑いの涼しいのと書いてどうする。だいたい、本の文句をなぞってどうする。借りた言葉で死ぬやつがあるか。死ぬときくらい、自分の言葉を使え」

言いながら卓袱台の前に胡座あぐらをかき、気がつけば赤鉛筆を舐めていた。因果な性分である。読み進めるほどに、赤は増えた。

まず誤字である。「短い一生でした」が「短い一升でした」になっている。

「酒屋の詫び状か」

「うるさいわね。夜なかに書いたのよ」

「一生に一度しか書けん文章だぞ。一度きりのものを、眠い頭で書くな」

次に嘘である。〈誰にも迷惑はかけたくありません〉とある。

「嘘を書くな。おまえさんが今夜そこの鴨居かもいで事に及べば、見つけるのは大家だ。大家は腰を抜かし、警察が来て、隣近所が表に並ぶ。この部屋は当分借り手がつかん。迷惑だらけじゃないか」

「じゃあ、なんて書けばいいのよ」

「かける迷惑を、洗いざらい書け。書き上げてから、それでも死ぬかどうか考えろ」

〈取り急ぎ、お詫びまで〉——ここにも赤を引いた。

「取り急ぐな。急ぎの用でもあるのか」

「あるでしょう、一応」

「急ぎの用ってのは、待たせると逃げるから急ぎと言うんだ。おまえさんの用は、逃げやせん」

それから、声に出して読ませた。文章というものは、声に出すとつっかえる場所がある。つっかえた所に嘘が埋まっている、というのが師匠の説である。女は読んだ。〈皆様〉のところで、まずつっかえた。

「皆様というのは、誰だ」

「……みんなよ」

「名前を言え。遺書の宛名に、みんな、という人はおらん」

〈わたしが居なくなっても、悲しむ人はおりません〉。赤。

「証拠は」

「あるわよ」女は指を折った。「国の母は、弟のお嫁さんと味噌の始末で喧嘩するのに忙しいし。工場の子たちは、わたしの検品の台が空けば、そのぶん楽になるだけだし。管理人さんは……」

指を折るたび、女の言い分は細くなった。悲しまん証拠を並べるつもりが、並ぶのは世話になった者の名前ばかりである。わたしは黙って赤を引き続けた。嘘。嘘。書き直し。嘘。

夜半、女が茶を淹れた。仕事場で出された物は口にせんのが決まりだが、この仕事場は最初から決まりの外である。飲んだ。出涸らしの、薄くて渋い茶だった。まずい、と言うと、女は妙な顔をして、それから初めて少し笑った。八年こっちで暮らして、淹れた茶の感想を言われたのは初めてだ、と言う。まずいと言われて笑うやつがあるか、と言うと、もっと笑った。

女は縫製工場の検品係だったそうである。集団就職で出てきて八年、朝から晩まで、よその人の晴れ着になる布の縫い目の飛びを数え続けて、それで目を悪くして、先月辞めさせられた。国の家には弟夫婦が納まっていて、帰る敷居は年々高くなる。それだけの話が、赤を引く合間に、切れ切れに出た。それだけの話で、人は死のうとする。

夜が白む頃、三枚あった遺書は五行になっていた。時候の挨拶が消え、嘘が消え、恨み言は「事実だが書き方が悪い。書き直し」で消えた。残ったのは、名前の列と、お世話になりました、の一行きりである。

女はそれを眺めて、心細そうに言った。

「これじゃ、遺書に見えない」

「ああ」わたしは頷いた。「ほとんど年賀状だ」

赤い書き込みだらけになった遺書の便箋と赤鉛筆、湯呑みがふたつ載った卓袱台を上から見たところ
挿繪 赤い書き込みだらけになった遺書の便箋と赤鉛筆、湯呑みがふたつ載った卓袱台を上から見たところ

表がすっかり白んで、わたしは腰を上げた。

「未完成だ」赤だらけの便箋をまとめて畳み、懐に入れた。「これでは死ねん。完成したら死ね」

「ちょっと。返してよ」

「盗品だ。空き巣が手ぶらで帰れるか」これは師匠の言い草の借り物である。手ぶらで帰った晩から腕が鈍る、が口癖の人だった。「取り返したけりゃ書き直せ。書き直したら、また盗みに来る。おまえさんの窓の甘さは、もう覚えた」

女はしばらく黙って、それから訊いた。

「泥棒のくせに、なんで文章にそんなに細かいのよ」

昔な、と言いかけて、やめて、結局話した。夜明けの部屋には、そういう魔がさす。

二十年前、わたしも書いたのである。三日がかりで便箋四枚。書き上げた晩に空き巣に入られて、金目のものは何ひとつ盗られず、遺書だけ盗られた。枕元に赤鉛筆の走り書きが残してあった。曰く——誤字三つ。時候の挨拶は不要。再提出。

「頭に来てなあ。ひとが三日かけた遺書だぞ。あれがないと、死ぬに死ねんじゃないか。取り返して、爺さんの鼻先に突き返して、それから死んでやると決めた。だが空き巣の探し方なんぞ知らん。仕方がないから、こっちも空き巣になった。錠前を覚え、屋根の渡りを覚え、窓の目利きを覚え——三年かかって見つけ出したら、爺さん、開口一番、書き直したか、と来た」

「書き直してたの」

「持っとった。三年間、宿を変えるたびに枕の下で直し続けとったからな。爺さんは読んで、また赤を入れて、再提出、と言った。……気がつけば弟子になっとったよ。死ぬ理由のほうは、どこかの晩に置き忘れた」

「あんたは、なんで書いたのよ。最初の」

「……忘れた」嘘ではない。「直しとるうちにな、理由を書いた行から順に、赤が入って消えていった。嘘が抜けるとな、文章は短くなる。死ぬ理由ってやつも、おおかた同じ作りだ。嘘を抜いてみたら、大した物は残らんかった」

「その師匠って人は、いまも」

「十年前に死んだ。風邪をこじらせてな、医者が呆れるほどの大往生だった。……あの人自身の遺書は、とうとう書き上がらんかった。いつから書いとったのか知らんが、八十過ぎまで書いて、それでもまだ、自分で自分に再提出を食らわせとった」

「じゃあ、牛乳箱とか、雨戸の埃とか」

「ああ。師匠の仕込みはな、留守の見分け方じゃない。住んどるのに、生きる用事をやめた部屋の見分け方だ。ああいう部屋は、留守とそっくり同じ顔をしとるんだ」

窓の桟をまたぐとき、後ろで女が言った。

「書き直して、完成したら、死んでいいのね」

「ああ」わたしは振り返らずに答えた。「完全な遺書が書けたらな。だが言っとくが、完全な文章なんてものは、この世にない。八十年生きた師匠がしくじったんだ。おまえさんなら、勘定して、あと五十年はかかるよ」

あれから女の窓の下を、月に一度ほど通る。

秋口に牛乳受けの壜が消えて、暮れには窓に新しい錠が付いた。今では通りから見上げても付け入る隙のない、閉まりのいい窓である。ああいう部屋には、もう入れない。それでいいのである。

一度だけ、乾物屋の前で行き合った。向こうは気づかん。眼鏡をかけて、風呂敷包みを抱えて、連れの女と何やら笑っていた。また誰かに、あのまずい茶を淹れるのだろう。プロの目に狂いはない。あれは、窓の閉まりのいい顔である。

家には海苔の缶がひとつある。師匠から預かった缶で、中身は遺書ばかりだ。師匠の代に盗んだものと、わたしの代に盗んだものと。同じ筆跡が二枚三枚と重なっている者もいる。書き直しの常連である。そういう手合いは、そのうち書き直しの間が一年になり、三年になり、やがて来なくなる。忙しくなるのだろう。生きるほうの用事で。

師匠自身のも、ある。分厚い便箋の束で、誰にも盗まれんかった代わりに、自分の赤で真っ赤である。読むたびに思う。この稼業でいちばんの上前を撥ねられたのは、閻魔えんまのやつだ。八十年待たされた挙句、受け取った遺書は未完成ときている。

缶の底に、いちばん古いのが一組ある。便箋四枚。わたしのだ。

師匠の赤が、今も乾いた血の色で残っている。二十年直し続けて、直せたのはまだ半分である。残りを直しきるまでは、死ぬわけにいかん。

欄外に、師匠の字でこうある。

——再提出。急ぐな。

折り畳まれた遺書がぎっしり詰まった古い海苔の缶。いちばん上の一枚には赤鉛筆の書き込みが残る
挿繪 折り畳まれた遺書がぎっしり詰まった古い海苔の缶。いちばん上の一枚には赤鉛筆の書き込みが残る

— 完 —

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