第四號
雪の停車場
あの名画の朱い燈は、わたしが点した嘘である
3,739字#人情#贋作

一
わたしの商売は、描くことではない。見ることである。
そう言うと人は笑うが、贋作というものは九分が眼で、一分が手だ。手先の器用な画学生なら掃いて捨てるほどいる。彼らの写しがどうしても贋作にならないのは、見る前に描くからである。わたしは三月見て、三日で描く。
戦前は、それでけっこう食えた。名のある絵が海を渡る前に、そっくりの弟が生まれる。弟は蔵に残り、兄は船に乗る。持ち主が承知していることも、していないこともある。わたしの仕事に立派な鑑定書が付いたことも、一度や二度ではない。眼の商売のくせに、鑑定家というものは、絵より先に来歴を見るのである。蔵から出た、というだけで、筆は半分本物になる。
戦争が、その商売を仕舞いにした。絵は疎開し、蔵は焼け、海を渡るはずの船は沈み、どれが本物でどれが写しか、帳面ごと灰になった。わたしは器用貧乏の指先ひとつで生き残った。
師匠——といっても画商の裏で同じ仕事をしていた爺さんだが——の教えで、いまも守っていることがひとつある。嘘をひとつ、置いていけ。寸分違わず写すな、というのである。訳を訊くと、爺さんは筆の尻で眉間を掻きながら言った。どこも違わんものをこさえると、どっちかが本物でのうなる。それは畏れ多い。それにな、いつかお前が、自分の描いたほうを見分けられんようになるぞ。
昭和二十二年の冬、わたしは上野の外れで、進駐軍相手に富士山と芸者の絵を描いて食っていた。一枚三十円。雪の日は客が来ない。その雪の日に、店じまいをしかけたわたしの前へ、外套の老人がひとり、傘も差さずに立った。
「贋作の、上手い人やと聞いて来ました」
物騒なことを往来で言う人である。わたしが黙っていると、老人は懐から新聞の切り抜きを出して、雪に濡れないよう掌で庇いながら差し出した。
「これを、描いてもらいたい」
二
切り抜きは美術館の記事で、写真版が一枚載っていた。《雪の停車場》。洋画家・仁科壮一が大正五年に描いた、というより、この一枚で画史に残った絵である。雪暮れの田舎の停車場。人のいない改札。画面の右奥、降りしきる雪の中に、信号燈の朱がただ一点、ぽつりと灯っている。
添えられた批評の文句は、諳んじている。——雪千里、ただ一点の朱。この燈こそ仁科芸術の魂である。
その朱を点したのは、わたしである。
昭和十二年、画商の口利きで、わたしはこの絵を三月預かった。複製を作るという名目で、持ち主の蔵から借り出したのである。返したのは、むろんわたしの描いたほうだ。本物は海の向こうの好事家へ売られる、という話だった。売られたか、船が出たか、わたしは知らない。知っているのは、蔵に納まったほうの絵が蔵ごと戦火を免れ、いま美術館で真筆と呼ばれていることだけである。
二階の仕事場に据えて、朝と晩、光を変えて見た。はじめの十日は筆を持たない。それがわたしの流儀である。仁科壮一はこの一枚のほかに大した仕事のない画家で、見るほどにそれが不思議だった。他の絵は、上手いだけの絵だ。この一枚だけが、上手さの向こうへ抜けている。雪の描き方ひとつ取っても、いま降っている雪ではない。もう積もることの決まった雪なのである。
本物の信号燈は、灯っていなかった。
三月見て、わたしにはそれだけが解せなかった。雪も、改札も、濡れたレールの光まで写し取って、最後にあの消えた燈の前へ来るたび、筆が止まった。三日目の晩、わたしは嘘を置く場所をそこに決めた。皿の隅で朱を溶き、燈の硝子の内側へ、米粒ほどの一点を差した。
わたしが一生にした創作は、それきりである。

「よく描けた絵です」わたしは切り抜きを返した。「写真に撮れば済むでしょう」
「これは、わしの絵やない」
老人は静かに言った。
「わしが仁科です。わしの停車場に、こんな燈は灯っとらん」
三
長屋のわたしの部屋で、老人は火鉢を遠慮して、湯呑の湯気だけを両掌で握るように座った。
仁科壮一は生きていた。生きて、京都の在で中気の後を養っていた。右手はもう茶碗が持てない。眼にも白いものが差してきたという。焼け出されて息子を頼って上京し、三十年ぶりに自分の絵に会いに美術館へ行き、そこで、灯っている朱を見た。
「係の者に言いました。これは違う、と。ほしたら気の毒そうな顔で、先生、お疲れでっしゃろ、と。……考えてみなはれ。三十年前の絵ぇや。描いた本人の覚え違いと、蔵から出てきた絵と、世間はどっちを信じます」
鑑定家も批評家も、絵を信じた。朱の燈こそ仁科の魂だと書いた男が、いちばん熱心に老人を諭したそうである。
口を利いた画商は空襲で死に、店も台帳も焼けていた。老人は焼け跡の道具屋から道具屋へ、贋作の噂だけを頼りに辿って歩いたのだという。
「あんたを探し当てるのに二年かかりました」咎める色は、声のどこにもなかった。「頼みはひとつです。わしの絵を、もういっぺん描いてもらいたい。灯っとらんほうを」
「ご自分で——」と言いかけて、わたしは老人の膝の上の右手を見た。
「描けんだけやないんです」老人は畳の目を見ていた。「わしはあの絵を、三十年見とらん。描いた絵ぇいうもんは、案外、描いた者がいちばん見とらんのです。あんたは三月、毎日見なすった。……この世であの絵をいちばん長う見たんは、あんたです」
わたしは引き受けた。金の話は、どちらからもしなかった。
支度に一月かかった。大正の頃の画布は、いまのものと織りが違う。焼け残りの道具屋を回って同じ時分の下手な風景画を一枚買い、絵を剥がして布だけを使った。膠を煮て下地を引き、乾かしては火に炙り、三十年ぶんのひび割れを一冬でこしらえる。贋作の時代付けというものは、描くより手間がかかる。人の三十年を薬缶と七輪で作るのだから、当たり前である。
描き出すと、手が覚えているのが自分でも怖いほどで、雪は雪のように、改札は改札のように出た。そして描きながら、幾度か薄ら寒くなった。いまこの手が出している雪は、本物の雪か、十年前にわたしが写した雪か。爺さんの言った通りである。三月見た本物と三日で描いた贋作とが、記憶の中では隣り合わせに掛かっていて、どちらの額が古いのか、もう見分けが付かない。
ただ、右奥へ来るたび、十年前と同じところで筆が止まる。朱のない信号燈は、描いてみれば、ただの黒い硝子の箱である。ここへ一点差せば絵が締まる。差したい。差すのが画家なら、差さんのが贋作師である。わたしは燈を消したまま、その上に雪を降らせて仕上げた。
四
絵が乾くのを待って、葉書を出した。老人は雪解けのぬかるみを踏んで、また傘も差さずにやって来た。
出来上がった絵の前に、老人は長いこと座っていた。立てかけ直させ、離れて見、寄って見た。眼が悪いというのが嘘のように、見る姿勢だけは画家のものだった。それから、妙なことを訊いた。
「あんた、なんであすこに朱ぅ置いたんです」
わたしは十年しまっておいた答えを、初めて口に出した。
「あの雪の中で、燈まで消えていては、あまり寂しいので」
老人は掌でゆっくりと顔を撫でた。笑ったようでもあった。
「あの停車場でな、わしは人を待っとったんです。大正五年の、こんな雪の日ぃに。汽車が着いて、その人は降りて来ませんでした。信号が変わって、汽車が出て、それきりです。……せやからわしの絵では、燈が消えとる。あすこはもう、汽車の出てしもた後なんや」
老人は、いま出来たばかりの、燈の消えた停車場を見た。
「あんたの絵は、まだ汽車の来る前や。ええもんを、長いこと世間に見せてもろた。無理もないんです、わしかて——わしかて、あっちの停車場に立ちたい」
「どなたを、待っておいででした」
訊いてから、悔いた。老人は答えず、ただ絵の中の、誰もいない改札のあたりを、眼を細めて見ていた。それを訊いてよいのは、あの雪の中に立った者だけである。
老人は絵を受け取らなかった。絵は、いちばんよう見てくれる者の所に置くのがいちばんええ、と言った。送るというのを断って、無理に持たせた金だけ懐に、凍てた雪の道を帰って行った。

※
翌々年の春、仁科壮一の訃報が新聞に出た。代表作である《雪の停車場》の写真版が添えられ、朱の燈は、例の文句でまた讃えられていた。
夏になって、美術館から人が来た。遺言状に、真筆は上野の絵描きの許にある、と一行だけ書き残されていたそうである。わたしは黙って絵を渡した。取りに来た男は絵を一目見るなり、燈のあたりで眉を曇らせた。ひと月ほどで、絵は戻ってきた。真筆と比べて筆致に疑わしい点が多く、来歴を証すものが何ひとつなく、なにより仁科芸術の魂というべき燈の朱がない。よく出来ているが、贋作である——鑑定書の写しまで、ご丁寧に付いていた。
なるほど、来歴がない。上野の似顔絵描きの部屋から出た絵に、蔵と戦火をくぐった絵ほどの身の上話はないのである。晩年の老画家が贋作師の許に通った、という話を信じる者も、いるはずがなかった。
本物だけが、贋作と呼ばれた。わたしは、それでよいのだと思っている。
絵はいまも、部屋の壁に掛けてある。雪はやまず、改札には誰もおらず、燈は消えたままである。朱を差せば、わたしの絵になる。差さずにおけば、あの人の絵のままである。
わたしは今夜も、描かずに、見ている。
汽車はまだ、着かない。
— 完 —